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のんびるトーク 9号(7月号)
2007-06-25 11:48:11
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三宅島、再起へ! “強くて怖え”島の女が挑む。
三宅ハート会
2000年に発生した噴火による三宅島全島避難。
都内各地で避難生活を強いられた島民たちがようやく故郷に帰島できるまでには、実に4年半を要した。
その間、東京の生協をはじめ、国や市民から多くの支援の輪が広がったが、島民自らにも「再生」への道を踏み出す懸命の動きがあった。その中心を担うのは、「島の女たち」だった。
止まらない火山ガス。島の産業のほとんどは「開店休業状態」。
現在も航空路が閉鎖され、定期フェリーしか交通手段のない三宅島。火山ガスの高濃度地区に指定される坪田地区・三池港に船が近づくにつれ、硫黄の臭いが鼻をつく。火山ガスの影響で立ち枯れた木々に覆われた山肌に、思わず言葉を失う。
島民の暮らしは、約20年周期で繰り返される噴火とともに共存してきた。役場に勤める石井規久さんは「いつもはドーンと噴火して溶岩が流れて終わり。翌日からは片付け作業、が普通だったのに」と話す。しかし、2000年のそれはまったくの想定外だった。
漁業や農業、観光業で生計を立てていた多くの島民にとって、全島避難勧告は完全な失業状態を意味した。都会での避難生活は4年超。やむをえず避難先で新たな生活基盤を築いた島民も多い。避難解除が出ても、高濃度地区では農作業はいっさい禁止、全半壊した店舗や旅館の再開には莫大な改修費用が必要となり、公共事業が計画されても手がけるのは島外の資本なのが実情だ。現在、島民は2853人(07年4月現在)だが、噴火前30%だった高齢化率は今や40%超、島に点在する校舎に子どもたちの姿はない。島内に3校ずつあった小・中学校は合併され、それぞれ1校になった。観光客は噴火前の6割程度だ。
避難生活も関係ない!自分たちの「自信作」を売り歩く。
今も避難当時のまま閉められた店舗が多い中、三宅ハート会(以下ハート会)が昨年1月にオープンした「ハートショップ」は島内でもとりわけ元気だ。ひとり暮らしのお年寄りや学校帰りの高校生が顔を出し、週末には観光客で賑わう。明日葉やどくだみ、のりの加工品など島の特産品をはじめ食料品や日用品、惣菜が溢れ、広々とした喫茶スペースまで備えている。
ハート会の代表を務める廣井美和子さんと菊地ミヨさんのふたりは、三宅村商工会女性部で活動をしていたころからの仲間だ。「島の特産物に新たな目玉商品はできないものか……」と、99年に島しょ振興公社の島おこし補助金制度を受けて閃いたのが、島中で栽培されていた“どくだみ”だった。しかも、それを化粧品にするアイデアを思いついた。
「これはおもしろいね!って、みんなで一緒になって、ああでもないこうでもないって試作を重ねたんです。で、商品化しようとしたところに、あの噴火が起きてしまって……」。
気付けば、追い立てられるように本土へ強制避難。そして慣れない都会での避難生活に右往左往する日々。仲間たちも関東圏の各避難場所に散り散りになった状況で、化粧品の販売どころじゃない……と一度は補助金の返還まで考えたが、実際に廣井さんたちがとった行動は逆だった。足の踏み場もない仮住まいに、完成していた?どくだみ化粧品償wを山のように置き、毎日販売に奔走した。
「“商品開発”って言葉で言うのは簡単だけど、完成するまで何度試作を作ったことか! そんなみんなの努力を無駄にしたくなかった。広告ひとつ作るにも、話を聞いてくれるところを電話帳でかたっぱしから“当たって砕けろ!”で探していったんです。だから、愛着は人一倍。今にして思えば、そんな化粧品を買ってくれるお客さんがいたからこそ、私たちも避難生活を堪えられたのかもしれないなあ、って。今でもイベントに呼ばれれば、たとえ赤字でも必ず参加しますよ。ハート会の名前はどくだみの葉っぱの形と『真心』のハートから取ったんだもの!」。
敏感肌にもやさしい、価格も手ごろで長く使える……単なる「三宅島の特産品」でなく、その使い心地は口コミで次第に広がっていく。リピーターも増え問い合わせが続くなか、廣井さんや菊地さんら4人は共同出資して任意団体のハート会を設立。ローション以外に乳液など新たな商品も加えた。そんな日々は異郷にあって、仲間たちをひとつにした。
しかし、予想以上の「儲け」に対して、嫉みにも似た批判の声もあった。かつて5つの集落に別れ反目し合っていた島の歴史が、独特の閉鎖的な風土を消せないでもいる。「ウチは噴火で畑は全滅。それなのに東京でのうのうと商売やるなんて」「自分たちだけ儲けりゃいいのか」……避難中で多くの人が収入源を断たれている状況ではなおさら風当たりも強かったに違いない。それでも「いつか絶対に島に帰るんだ。島のことを知ってもらわないと未来はないんだ」という思いが、会の活動を続けさせた。散り散りに避難生活をしているお年寄りのために、廣井さんたちは売上げを使ってバス旅行も計画した。
「春には三宅島に続く海を見に行ったり、秋には富士山に帰島祈願に連れ出したり。みんなの楽しそうな笑顔が今でも忘れられないです」。
「庭のミョウガを持ってきたら、200円で買い取るよ」。
島には「かかあ天下に西の風」という言葉がある。「三宅の女は強くて怖ぇ、ってことを男たちが言ったのかな」と笑う廣井さんたちだが、避難生活中も漬物屋に研修に行って加工品の製造法を独学するなど、帰島後を見据えて都内各地を走り回った。
ようやく帰島を果たしても、話は簡単に進まない。食品加工場やショップの場所探しに無人と化した給食センターや保育園、老人施設、保健所などを当たってみても、首を縦に振る人はいない……それでも廣井さんはあきらめず、とうとう自らの資金2000万円近くを店舗の改装や加工工場建設に投資。帰島から約1年半後の2006年7月、ハート会を株式会社化させた。
ショップに並べられた500円程度の惣菜は、港湾や道路の整備で働く人々や、お年寄りの日々の食事を支える。東京の市場との橋渡し役も担うハートショップに明日葉を卸す生産者は、最年少でも72歳。なんと収入は、多い人で月に60万円程度にもなるという。仕事という生きがいは、収入以上に誇りでもある。
「年金を取り崩すって、高齢者にとっては寂しさにつながるのね。だから例えば、おばあちゃんが庭で取ったみょうがを5個持ってきたら、『200円で買い取るね。私たちは250円で売るね』って取引きをするんです。そうすれば、おばあちゃんは200円分の買い物を楽しめるってわけ」。
「モノを通じて信頼を交わす暮らし」は、もともと島の暮らしそのものだった。ささやかな地域通貨ともいえるその発想は、「物々交換」に近い。
「みんな顔見知りだし、お互い助け合わないとここでは生きていけない。でもどんなにささいなものでも持ち寄り合うことができれば、支え合いも自然とできる。おじいちゃんでもおばあちゃんでも、“やることがある”ってことは、生きる希望につながると思うんです」。
「島の子たちはね、三宅島の未来をしょって立つ宝なの」。
活動帰りに店を訪れる高校生たちに、廣井さんは「学生は全部50円サービスしてあげるよ!」と声をかける。若者は都会をめざし、島にはお年寄りが残り、観光客はなかなか来ない……島の課題は、崩壊した島の産業基盤の建て直しに挑む廣井さんたち島民一人ひとりの課題でもある。だから、明日葉の害虫が発生したとなれば、役場や農協、生産者と一緒に対策を考える。島に「他人事」はない。
「島の子たちはね、未来をしょって立つ宝なの。君は村長、君は医者……おばさん期待してるからね!」。
「明日葉だけで3世帯を養えるよ。もっと若い人にも知ってほしいなあ」と明日葉生産者の浅沼善幸さん(74歳)。そうした地場産業の?現役償wであるお年寄りたちと一緒に、廣井さんたちは「島が後世に残していきたいものって何だろう?」を考え続ける。それは島外者を招き入れる「島の魅力」にもなるだろう。
「都会はどこに行くにも電車で、人がいっぱいでびっくり。島では家に鍵をかけたこともなかったのにねえ」と、菊地さんは避難生活を振り返る。
どんなに避難生活が長くなっても、火山ガスが止まらなくても、一時も忘れることのなかった「とにかく帰りたい」という気持ちがあったからこそ、今の廣井さんたちの意欲はより揺るぎがない。
「海の見られない暮らしなんて考えられない。太陽に照らされて、山になる木いちごを採って食べる。それだけのことで不思議と元気になって、心にもゆとりができるんだもの。また明日も早起きしてみんなと惣菜づくり。私たちが島でがんばってる姿を見せることが、助けてもらった方々への一番の恩返しなんだしね!」。
※
「株式会社 三宅ハート会」〒100-1211東京都三宅島三宅村坪田5364 TEL&FAX:04994-6-1855
Eメール:shop@miyake-heartkai.com HP:http://www.miyake-heartkai.com/
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