母が語る 一門さんの生涯
1948年1月20日
埼玉の田舎で、 生まれた時は普通分娩だったんですよ。3000以上体重がありました。でも、首のすわりや寝返りが遅く、はいはいと立つのは生後1年半になってでした。
2歳になって、よたよたと歩くようになりましたね。
1951年
東大病院に行って診察してもらったら、脳性麻痺と言われました。 脳性麻痺の子は、眠りが浅いんです。夜、五回ぐらい起き、昼寝もしなかったですね。少し大きくなってから、友達と遊ぶんでもらえず、一人でよく遊んでました。
1952年
主人の仕事もあって、東京へ越してきました。
妹の裕子が生まれました。
1957年
2年遅れで小学校へ入り、送り迎え、授業中もずっと付いてました。そのころは担任も一人で手が掛かるばかり、無駄な気がして数ヶ月で止めました。
1962年
14歳で、東京都下H市内の個人施設に入所しました。狭くて設備も充分ではなかったですが、家族的で障害を持った子供の介護や教育に熱心でよく面倒見てもらいました。新聞に載ったり、有名人からの寄付も多かったです。
1968年
20歳の時、H市の個人施設が栃木の成人用の施設を作って、一門もそっちに移りました。はじめは、軽い障害者の園長夫婦が自分の子供のように面倒を見てくれて、喜んでましたが、自分らの子供が産まれたり、私腹を肥やすようになったり、入所者や職員がだんだん増えて変わっていきました。
家財道具も買って行ったり、寄付の連続でした。誕生会のケーキ代やら、本当にお金をよくとられましたね。
ウンチを洩らすからと寒いトイレに放って置かれ可哀相でした。這って歩くので膝もわるくしました。
1977年
父親が病死して、そのせいか一門の体もぐんと悪くなった気がします。
最後には、どうしても整形外科病院に移るように強制させられました。そこに行くとみんな生きて帰れないので抵抗しました。
1985年
37歳の時に、東京近郊M市内の整形病院に入所したんですが、ここはもうそれは酷かったです。家政婦さんを付けたりしましたが、お金ばかりかかって、一門が何も言えないのをいいことに少しも面倒を見てくれないので止め、私が付き添うようにしました。
病人を食い物にする家政婦さんが横暴でいじが悪く、“生き馬の目を抜く”ってああいうことだと思いました。
回覧板が廻って職員に盆暮れの贈り物も要求されました。
一門は身体が大きくて、寝返り打たせるのも大変なぐらいで、トイレなどに行かせるには私一人ではどうにもならないのに、誰も手伝ってくれませんでした。ほんとにいじめでしたね。
早く脱出したかったけど、次が見つからないのでどうしようもなかった。
あちこち手術され、家では介護ができる状態ではなかったですから。
あまりの状況に、娘がK区の福祉事務所と児童相談所に現状を訴え出ました。児童相談所の係官が良く話を聞いてくれて涙が出たそうです。
そのあと、東京都から病院に視察がきたことで、私が告げ口したと言われ事務所から呼び出しを喰いました。病院中の人から疎外されました。
本当に四面楚歌の状態になりました。
都から施設にお金が出ているのに家族に付き添いさせていることを指摘され、私は追い出されたんです。
それから一門が家政婦さんや 看護士の虐待と言っていい扱いが続きました。一門がちょっとでも気に入らないと怒り、一番の楽しみの食事も抜かれたりで次第に一門の表情が無表情になったんですよ。
一門は、人に嫌な態度をとることなどしないで、誰にでもいつもよく笑う子だったのに、顔が凍りついたようになってしまった。人から、表情がないので、仏像のようだと言われました。
でも、一門は、一言も人の悪口を言いませんでした。私たち家族が言うと、
とても悲しそうな顔で嫌がりました。
1987年
二年経って、やっとM市の病院から逃げ出すことができました。荷物も全部置いて、本当に逃げたんです。
39歳の時 に、知人を頼んで家の近くの療護園に入所ができました。
ここは職員の方が親切で、初めてほっとしました。
私は毎週火曜日に、編み物を教えに、日曜は家族として面会と、園に通いました。
手芸部の皆さんに頼りにされ立ちっぱなしで世話をしました。一門もそばにいても叱られず、御茶も一緒に出して貰いました。
私にはミシンは身体の一部のような感じなんですよ。仕事がカーテンの縫製でしたから。当時は、締め切り、締め切りにいつも追われて寝る間も惜しん
でね。私たちが居なくなったって、一門には物乞いも出来ないんですから。
そのために、一門のために、働いてお金を残してやらなくてはと懸命でした。
今は、着物を服にしたり、いただいた布で袋物や半天なんかを作ります。
教えて欲しいという方には編み物も教えます。
本を見たり、NHKの放送を観たりして、独学で覚えたんですよ。
療護園の入所者は事故で障害を持った人も多くて、一門も可愛がってもらいました。
家政婦さんが、親の私や妹の裕子が行った時に、わざと一門に訊くんです。
「この中で一番好きなのは誰?」と。
一門は、私や裕子を指差したいのに、何も答えませんでした。ああいう障害があっても、自分を守る術を知っていたんですよ。
よく世話をしてもらいました。一門はまた笑うようになったんです。若い寮母さんに、「一門さんのうんちが汚いと感じないわ。私の手についても顔についても平気なの。」と言われましたよ。
日曜日には、さんぽに行ってみんなににアイスクリームを買ってやったりしました。みんなとても喜んでくれてね。
1998年3月5日
50歳の時、インフルエンザで発熱、ひきつけ、意識不明となりました。
人工呼吸器を付けて、会わせたい人には会わせるように、と言われました。救急車で入院した病院は、看護士が冷酷でひどい所だったんですよ。
数ヶ月いたのに、入浴は一度もなく、シーツの取替えはあったのかしら?
背中の部分に氷嚢の金具類が入っていてもそのまま寝かせている有様。
喉の痰が吹き出して首の下もぬるぬるでした。
それでもお中元には、下働きのおばさん(以前は家政婦だった)全員にそれぞれ贈り物をしました。そう要求されるんです。
その後、別の病院に変えてもらいました。ここではお風呂もきちんと入れてもらい、いつもきれいな顔をしてました。療護園の寮母さんや仲間も面会に来てくれて、「まるで分かってるような顔だね」と言われました。
2001年1月13日
この日、息を引き取りました。53歳でした。
一門が入院していた最中に、娘の薦めで私が75歳の時から、水彩画を始めました。
小学校以来でしたが、講師が下手でも褒めて下さるので楽しく続けられました。念願だった写生も出かけて良い思い出になりました。
私は一門が死んだら生きていく甲斐が無いと思ってました。
耳は遠いですが畑やら編み物やらこうして好きなことをやって暮らしてます。
一門が小さい頃は障害を持ってると隠す時代で親戚も冷たかったです。
役所に行くとお恵みを施す、という顔をされて辛かったです。
私が歳取ってから近くの施設で面倒を見て貰って良かったです。病院も3年間、雪で車が動けなくても台風でも歩いて毎日通いました。
その頃、(良い時代になった)って思いましたよ。
でも今はまた、障害者に厳しい法律に変わったようですがね。
リポーターの独言
一門さんが、入院先や施設でどんなに酷い目にあっても、お母さんにも話さなかった、ということを思い出すと、涙がじわじわじわじわと目の周りを濡らす。お母様は、「自分を守るために言わなかった。」と言われたが、私は、もうひとつ、「誰も傷つけたくなかった」一門さんの心を感じ、そのことを思うと胸が切なさでいっぱいになるのだ。
福祉や介護というものは、いかに素晴らしい施策が打ち出され形ができても、携わる人間の心がどうであるかで、そこが優しく暖かいものになるか、逆に冷たく過酷なものになることを思い知る。
一門さんの、いつも誰にも笑顔であったという心こそ、永遠に生きるものなのだと、私は深く深く胸に刻んだ。
井出裕子さんのホームページ『井出裕子 本の部屋』はこちらです。
(佐々木 和恵)