前のエントリーで、病院での爆笑版を書きましたから、今度は“エレジー版”を書いてみようと思います。
夫は1989年、55歳の時に職場で最初の脳梗塞を起こし、信濃町のK病院の脳梗塞の権威と言われている医師の診療を二ヶ月近く受けました。
この時のことは、周りの人の様子を見る余裕もなく、今考えても私はただあたふたしていただけの記憶です。
夫はこの時点で社会の一線をひき、現在の茨城県の森と田園の町に引越し、療養生活に入ったのです。まだ充分仕事のできる年齢でのリタイヤは無念でもあったのでしょう、今でも夫は、”この時代の自分”で止まっているところがあります。年齢も自分は55歳前だと思っていますし、スーパーの屋上駐車場など高い建物にあがった時に大きな緑の森が見えると、決まって昔の職場から見えた”神宮”だと言います。余談ですが、いつだったか、自分は45歳だと言い張る夫に、「あなたが45歳なら私は37歳ってわけね、ウキウキ」と言ったら、夫はじいっと私の顔を見て、「君、老けたねぇ」と言ったもんです。
最初の脳梗塞から10年が過ぎた1999年の9月に、トイレでぐったりとなり、、救急車で搬送された病院で、脳出血と診断され、即、頭の四箇所に穴を開けての手術が行われました。
生還は50%もないと言われましたが、幸い命をとりとめました。
「爆笑版」で書いた行状はこの時の入院中でのことです。
でも実際は、爆笑版は少ないのでした。この時の病院は脳梗塞や脳出血の専門病院でしたから、重症の患者さんが多く、付き添う家族の方もだいたいが暗く、六人部屋の病室は常にそこはかとない哀感が漂っていました。
そういう中、ひときわ明るい穏やかな表情で、ご主人を親身に介護されている、私の母くらいの年齢のAさんという方がいらっしゃいました。ご主人は、わずかに手が動くだけの症状で、口も全くきけませんでした。
「脳梗塞を起こしたんですよ。仕方ないです」と、Aさんはハッハと潔い爽やかさでもって言われ、私は、(達観されているんだなぁ)と感心しました。
ある日のことです。いつものように朝、病室に入ると、Aさんが、ご主人の両手を握り締めてうなだれておられました。余計な気遣いをしてはかえって失礼だと、私は気づかぬふりをしたまま、Aさんご夫妻のベッドの脇を通り過ぎようとしました。
すると、Aさんが涙をいっぱいにためた窪んだ眼を私に向けて、「おじいさんが、パジャマのポケットに、湯のみやら歯磨きやら、家からもってきたもんをつっこんでおったのよ。この動かない手で。・・・家に帰りたい、言うとるのよ、口で言えんから、こうやって必死に訴えとるのね」と小さな声で言われました。Aさんは滂沱と涙を流されました。しわをつたって、涙はたちまち顔中に広がりました。
Aさんは、私の夫が、大分回復した人の病棟に移る日、「よかったね〜」と私の手を握り締めて言って下さいました。
夫が退院して、その病院に月に二度づつ検診に行っていたのですが、Aさんのことが気になってなりませんでした。それでとうとう三ヶ月ぐらい経った時に、私は夫をロビーに待たせ、病室に行ってみました。
Aさんご夫妻の姿はありませんでした。顔見知りの看護師さんに訊いてみましたら、「ああ、あのおじいちゃん、退院したわよ」とケロリと言われました。
「え? 退院? ご主人、元気になられたの? お身体は? 口はきけるようになられたの?」と矢継ぎ早に再び訊ねました。
「ええ、そうよ」
看護師さんは一層アッケラカンと答えて、さっさと去って行きました。
私はしばらくそこを動くことができませんでした。看護師さんのウソに打ちひしがれていました。いいえ、だからと言ってその看護師さんを悪く思う気持ちはありませんでした。
ただ、寂しかったのです。(あのAさんが、本当に元気になったご主人と連れ添って家で暮らしておられたら、どんなにいいだろう、いいだろう・・・)と胸がつぶれそうでした。
なぜウソと思ったか・・・あの涙の日、Aさんがご主人が眠られた後、私を廊下の隅に呼んで言われたことがあるのです。
それは、Aさん夫妻が、病院から受けた『不条理』と、病院への不信の気持ちでした。
・・・これ以上はここに書くことはできません。・・・家族の直感は、真実をとらえることがある、ということと、いつも穏やかな優しい表情だったAさんが見せた、挑むようだった凛とした目を忘れることはできません、とだけ書いておきましょう。<エレジー、つづく>
(佐々木和恵)