十数年前、私はあるボランティア活動に参加するために、研修を受けていました。研修は、一般教養、心理学などのカリキュラムが組まれており、中でも重きをおかれていたのがカウンセリングの講座で、何人もの講師の先生がいらっしゃいました。そのお一人が、永原伸彦先生でした。
どの先生の講座もそれぞれの理念のもと、私たち受講生の体験をも引き出しながら進められ、緊張感と刺激のともなう興味深い勉強でした。
特に永原先生の講座は印象的でした。ご自分の理念を教え与えることに重きをおくのではなく、受講生一人ひとりが話すことを篤実に受け止められ、受講生は、自分が理解されているという安心感、充足感を覚えたのでした。言葉を変えれば、それは、「癒された」というものであったのだろうと思います。
私は、父親の介護の手伝いをしなくてはならなくなり、まもなくそのボランティアをやめ、永原先生の教えを受けることはなくなりましたが、自分が何らかの苦悩を抱えたり、社会に理由なき無差別殺人と言われる出来事が起きた時など、『永原先生だったらどのようにとらえられるだろう・・・』とよく思いました。
今年に入ってから、数人の同世代の友人と集まる機会があり、期せずして一人の人から、普段は真面目にサラリーマン生活を送っていた息子が、突然会社をやめ、引きこもり状態になった、自殺や事件が心配だ、という話が出ました。それを機に、他の人たちからも、そのようなことが身近にあるという話が次々に明かされました。
私は、この日を機に、『身近な人間が、社会に順応できなくて苦しんでいる時、どのように対したらいいか』を永原伸彦先生に伺ってみたいという思いを強くするようになり、このたびその機会を得ました。
悪いことだ、修正しなくてはいけない、と決め付けていませんか?
「佐々木さん、会社を突然やめ、引きこもり状になり、誰かが説得しようとすると、暴言をはくというこの人の状態を、“悪い”“病理ではないか”“直さなくてはいけない”というところから、私の意見を聞きたいと思っているでしょう?」
私はドキッとしました。確かにそうでした。このような状態は、『社会性がなくて、病理的な要素があるのではないか。それを直すのはどうしたらいいのか』と思うものがありました。
「これは悪い、病理だ、修正しなくてはならない、と決め付けていたら、何を聞いても見ても、そうでしかないでしょう? 苦しんでいる人の前に、いっさいのきめ付けをまずとることが大事です。病気であるかどうかの見極めは必要な場合もありますが、最初にそれを疑ったり、決め付けていくのは苦しんでいる人をより追い詰めます」
大切なのは、その人の”今”を認めること
「社会性がないのは悪いようによく言われますが、そもそも社会性って何でしょうね? みんな完璧な社会性を持っているんでしょうか? 人と同じようになることが社会性でしょうかね?」
「今、佐々木さんが話されたこの人は、もうこれ以上頑張れない、もう精も根も尽き果てたという感じですよね。私は今の彼が一番大切だと思う。頑張れたり、順応しているように見えるときは誰でも彼のことを認められる。一生懸命生きてきて、今、虚しさと心細さの中にいる彼を、そっと受けとめる。頑張れなくていいよ。そういうときもあるよ。だから自分を否定しないで、と心で伝えていく。人は、今、このときのありのままを受けいれられたとき、少しずつ今の自分を受け入れ始める。少しずつ心の”雪解け”が始まるのじゃないでしょうか」
「人は誰でも、家族や身近な人に認められて、本当の生きる力、能力、自信を身につけていくものです。誰からもほめてもらえず、認めてもらえなければ、その足元は常にどこか不安なんじゃないでしょうか。それでは何かのきっかけで力尽きてしまう」
ほめたり認めるって、とってつけたようにならないでしょうか?
「たしかに難しいかもしれません。でも、親身に伝えていくのです。それには
手紙がいいと思いますよ。すぐには読まれないかもしれませんが、いつか読んでくれるかもしれない。その時、親や、友達の真剣な思いが、その人の心を揺さぶるかもしれない。いえ、そう信じて折々に出すのです」
++++++++++++++++
プロフィール
永原伸彦
1946年福岡県に生まれる
(財)茨城カウンセリングセンター理事(カウンセラー)
茨城大学大学院、茨城キリスト教大学講師
日本人間性心理学会理事、茨城いのちの電話理事
大手情報系会社の東京本社、筑波研究学園都市の研究機関などのカウンセラーも兼務
著書(共著)に、「パーソンセンタード・アプローチ」(ナカニシヤ出版)
「産業カウンセリングの実践的展開」(至文堂)など
++++++++++++++++
リポーターの独言
私は永原先生から伺ったことを、前述の友人たちに話しました。すると、息子さんの話をした友人が、このように言いました。
「今の時代は、何かの出来事を起こした人、失敗した人、挫折した人、人間関係を築くのが下手な人たちに、とても冷たいよね。時には集団で罵詈雑言を集中的に浴びせる。それって、まるで、水が不足して枯れかかっている木を火であぶるような残酷さだ、と思っていた。
でも、自分の身近なものが挫折や失敗をして、自暴自棄な言動をとったり、引きこもりになると、とんでもなく悪いことのように思い、あるいは病気だと決め付けて恐れたりする。それもまた、枯れかかっている木を火であぶるようなことなのね。枯れかかり、疲れた木には、水をほどよくそおっと注いで、またやわらかな芽が出るのを見守ればいいのね。だめと決め付けていたずらに騒いでは、蘇る木も本当に朽ちてしまう」
私自身もしみじみと思いました。
『家族の誰かが躓いた時、それを受け止めるべき母親もまた水を注がれることが必要になっている。だから、深い忍耐のともなうことで、疲れた母親には辛く難しいことに違いない。・・・でも、このことを知らされたこと自体が、母親には泉の水を注がれたことになるだろう。自分を保って、力尽きた家族を支える力になれるのではないか』と。
(佐々木和恵)