当ブログ2007年08月19日の記事「
茨城県・八千代町図書館司書、山中治雄さんの生涯 1<図書館が”ぼっち”になればいい>>」に、本の力を信じ、町のこどもたちの将来のために図書館を作りたいと奔走し、念願の図書館が出来た後、病気で早世された図書館司書、山中治雄さんをご紹介しています。
<茨城県・八千代町中央公民館事務室にて '89.6.15>
その山中治雄さんの追悼集が、山中さんの死を惜しむ友人たちの手で、今年の初夏に発行されました。
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<題字は、1999年の山中さん手書きの年賀状より。「暮低想高」(暮らしは低く、想いは高くとは、故人の好きな言葉であった。>
※「暮らしは低く、想いは高く」=イギリスの桂冠詩人、ウィリアム・ワーズワース(1770−1850)作、「ロンドン・1802年−1」より
<追悼文集発刊に寄せて>
■「山中治雄さんを偲ぶ会」実行委員会一同
早いものです。山中治雄さんがこの世を去ってから、二回目の夏が訪れようとしています。八千代町立図書館の職員として、図書館のあり方を追求した山中さん。その理念は図書館に留まらず、さまざまな社会活動に及びました。そしていつしか、その思いに共鳴する多くの仲間が生まれました。
その仲間が、山中さんの早すぎる死を悼み、ここに追悼文集を発刊します。同僚・友人・恩師の方たちなどが呼びかけに賛同してくださり、全部で三十五点が集まりました。一点一点が、山中さんの「人となり」を私たちに教えてくれる、珠玉の言葉です。
在りし日の山中さんに思いをはせながら、読んでいただければ幸いです。
<東京時代の若き日の山中さん=障害児教育に>
■山中治雄君との思い出 鵜沼克浩
私と山中君との付き合いは、かって東京都目黒区にあった都立大学に在学中、教育学の小沢有作先生のゼミで知り合ったことから始まる。当時の彼は、太い枠の眼鏡にあご髭をたくわえた風貌で、時折愛用のパイプを取り出しては、満足そうに一服する姿がなんとも印象的であった。優しくて落ち着いた眼差しと口調の治雄君とすぐに気が合うようになり、時々、大学近くの彼のアパートにも遊びに行くようになった。その年、就職が決まらなかった私は、彼に誘われ大田区立蓮沼中学校の障害児学級の子どもたちの介添え人として毎日五時間一緒に勤務することになった。私が教員になったのはこの時の一年間の体験が大きく影響している。仕事が終わるとよく、途中の蒲田駅前で二人で食事をした。また、治雄君に誘われて小室等のコンサートや、小栗康平監督の映画に出かけた。
その後私は中学校教員として郷里の福島にもどり、治雄君は川崎市の六郷にあった町塾に勤めた後、郷里にもどり八千代町の職員になった。(略)
<郷里茨城県・八千代町役場の職員になってからの山中さん=映画上映などの企画も>
■故山中治雄くんとの思い出 北島直廣
彼がまだ元気だった頃、耕地課に勤務していた時の印象が、僕にはこう見えた。
旧庁舎で、何回か仕事で訪れた産業課の隣に山中君はいた。比較的大きな体をしていた君は、何となく慣れない居場所のように感じ仕事をしていた。もう一人のN君も大柄な図体をしていて、隣り合わせに座っている君の机が小さく見えた。声をかけると、上司もいるせいか照れくさそうに笑っていた。
君はやはり図書館の仕事がよく似合っていた。大きな体にエプロンを掛けて、本棚の整理等をてきぱきとしていた。企画展等の説明も、眼を輝かせて説明していた。勉強家だった君だからとにかく知識は豊富だった。なかなかついていけないところもあったが、よく説明をしてくれた。実に時代を見据えた企画を考えるものだと感心すらしていた。
そんな元気な君の姿が今は見られない。とても残念なことだ。
少しタイムスリップしよう。平成四年十二月に「こうみんかんミニシアター」という映画上映会が行われた。僕と山中君との出会いはこのあたりだった。約十五年前のことである。彼が立ち上げたこの企画は、今では三十五回も数えるようになった。僕もPTA等で子ども達に、良い映画を観せようと教育映画(フィルム)を数回企画している頃だった。
当初は公民館の係りだった山中君がフィルムの内容や日時の設定などを決め、僕も映画ファンとして積極的に観るようになっていった。古い映画もあったが、何か観たいものが実に合致していた。当時は年に三回ぐらいだったが楽しみに待っていた。その後担当者も変わっていったが、途中、栄華好きの仲間達が受け継いだ。今で言う「官」から「民」に移行された「やちよシネマクラブ」というサークルを誕生させたのも、彼の力がとても大きかった。(略)
<最も充実していた頃の山中さん=念願の図書館が開館して>
■私と山中 猪瀬誠
(略)
数年後、町立図書館に異動になった私は再度彼と同じ職場になりました。図書館の仕事をしている山中を見ていると充実している感じを受けた。それは長い間八千代町に図書館を造りたいという思いが実現し、他県の素晴らしい図書館を見てよい所を取り入れ図書館の構想から建設、そして開館、運営と職員生活の中で一番充実していた時期であったろうと思う。(略)
<烈痛と孤独に打ちのめされる日々もあったに違いない山中さん=だが常に生の日々をその誠実さと忍耐心で輝けるものとした>
■山中さんと私のかかわり 野中宏美
(略)
そんなある夏休み(註:筆者が中学生の時)、町のプールに遊びに来た帰り、ふと公民館に立ち寄った。そしてそこの二階に、小さな図書室を見つけた。
本そのものに飢えていた私にとって、町の図書室は興奮と感動の場所だった。ここの本が全部無料で借りられるのだと思うと、日々の退屈な田舎暮らしが少しは潤うように感じられた。そしてその図書室を切り盛りしていたのが山中さんだったとは当時の私は知る由もなかったが、規模のわりに蔵書の内容は充実しており、こんな町にも意外にセンスのいい職員さんがいるものだと感心していた。(略)
その後、まさかの図書館誕生! それはちょうど私が就職で悩んでいるときだった。図書館があるなら地元も悪くないかな?という気になった。そして親の勧めもあり、なんとなく役場に就職してしまった。配属は教育委員会の学校教育課だった。間もなくおこなわれた歓送迎会で、ボサボサ頭にメガネの男の人がニコニコしながら話しかけてきた。それが山中さんだった。略)
とんがって未熟な私の自意識に、社会人の常識と、多様な価値観に対する寛容さなど、楽しく教えてくれた。彼の言葉にはいくら反発しても吸い込まれてしまいそうな包容力があった。どんなことにも彼は自分の言葉を持ち、しかし、それらを声高に主張することはなく、それはまた偏見のないものであり、その語りはいつも優しかった。(略)
亡くなる数ヶ月まで、ほんとうにいろんなところへ連れて行ってもらった。そして最後に一緒に出かけたのは、浅草だった。入退院を繰り返している間に開通したつくばエキスプレスに、ぜひ一度乗ってみたいというのが彼の願いだった。(略)
山中さんは、直腸の移植手術の影響で脚がしびれ、片足を引きずるようにして歩いていた。ときどき、ほんとうに辛そうに顔を歪め、体の痛みに耐えている様子は見ていて痛々しく可哀想で、しかし、それを口には出さず、決して泣き言を言わない山中さんに、「大丈夫? 無理しないでくださいね」となんて社交辞令並みの言葉しかかけられない自分が情けなかった。(略)
その年の四月の夜、私は山中さんからの苦悶の電話を受け、山中さんは自ら呼んだ救急車で病院に搬送され、そのまま入院となってしまった。
そう、末期のガンに侵されながらも、彼は自らの生活スタイルを貫いた。
古びた安アパートの一室で、独りで苦しみに耐えていた。あの時の電話の声がいつまでも耳を離れない。
「宏美ちゃん、俺だめだ、今から救急車を呼ぶ、多分また入院するから後よろしくたのむ。悪いな」と、ほんとうに苦しそうな声。
それから数ヵ月後に山中さんの容態は急変し、遠く那須の地で、そのまま帰らぬ人となってしまった。(略)
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茨城県・八千代町図書館
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リポーターの独言
追悼集から、ご友人の文を書き写す手を何度も中断しなくてはなりませんでした。おひとりおひとりの文から、山中さんの若き死への痛みと無念と友情の篤さが、たった今、山中さんを見送っているような臨場感をもって伝わってきて、悲しみで涙が溢れてならなかったからです。
あらためまして、山中治雄さんのご冥福を心からお祈り致します。
(佐々木和恵)