このブログの7月5日の記事『
紙芝居の革命児、遠山昭雄さん監修の本<はじめよう老人ケアに紙芝居>』で、遠山昭雄さんをご紹介していますが、再び遠山昭雄さんに登場していただきました。
お話しいただいた内容を振り返って見ますと、介護制度そのものについて、こどもの発達と老いの持つ相違点、介護予防の陥りやすい問題点などなど、貴重なご意見がいっぱいありました。
でも、「遠山さんといえば表現を通して高齢者の方の心に並ぶ」という印象が強く、そちらに引張られるのです。
感情の乗り物が大事
遠山さんは、インタビューが始まると真っ先にこう言われました。
「感情の乗り物?」
「そう。高齢者はどこでもどうしても自分の感情、気持ちを、抑える傾向にある。それは他者や上から抑えられるということばかりではなく、自ら、気持や感情を出してはいけない、というようなところがあるんですよ。また、気持や感情を出せなくなっている、ということもある。
ぼくは、それが気になるんです。気持ちは抑えるのではなく、発散するのが大事。なんとか高齢者の人が、我慢しないで、怒りでも喜びでも出していくようになれないかな、とずうっと思っているんですよ。
そこでいきついたひとつが歌です」
「歌? 楽しい歌ですか?」
「と思うでしょう?! 感情を発散するには楽しい元気な歌、だと。実際、歌は楽しいものに限定しているところもありますよ。
でも・・・そうじゃない。哀愁を帯びた歌がいいんです!」
「それはどうしてでしょう?」
「抒情的な哀愁を帯びた歌を聴いていると、喜怒哀楽が自然に出てくるでしょ。辛い悲しい思い出が出るかもしれないけれど、そこから自分の感情が吐き出せる。・・・これがカタルシスになると思うんです。自分の思いが浄化されて、理屈でなく気持がさっぱりとなる。一緒に歌っていると、それが伝わってくるんです」。
この日、遠山さんが高齢者の方々と歌ったのは、「
琵琶湖周航の歌」でした。
作詞 小口 太郎、作曲 吉田 千秋 (大正6年)
1
我は湖の子 さすらいの
旅にしあれば しみじみと
昇る狭霧や さざなみの
滋賀の都よ いざさらば
2
松は緑に 砂白き
雄松が里の 乙女子は
赤い椿の 森陰に
はかない 恋に泣くとかや
3
波の間に間に ただよえば
赤い泊まり火 なつかしみ
ゆくえさだめぬ 浪枕
今日は今津か 長浜か
4
瑠璃の花園 珊瑚の宮
古い伝えの 竹生島
仏のみ手に 抱かれて
眠れ 乙女子 安らけく
5
矢の根は深く 埋もれて
夏草しげき 堀のあと
古城にひとり たたずめば
比良も伊吹も 夢のごと
6
西国十番 長命寺
汚れのうつしよ 遠く去りて
黄金の波に いざ漕がん
語れ我が友 熱き心
遠山さんは自らハーモニカを奏でながら、皆さんと一緒に歌います。切々とした歌声がホールを満たしました。中には無言のままの方もいらっしゃいましたが、どの方も、心を歌に寄せておられるのを感じました。
「歌には力があるんですよ。星影のワルツも素晴らしいですよ」
「紙芝居も歌のように、カタルシスを呼ぶ力があるんでしょうか?」
「紙芝居はちょっと違いますね。みんなで一緒に歌う、紙芝居をみんなで観る、という集団の中で成立する、という上では同じですが、紙芝居の場合は、みんなが程よい集合の中で、ともに笑いあう、というのがポイントなんです。歌が個人個人のカタルシスを呼ぶ、なら、紙芝居は、他の人と笑いあうことで、孤独を和らげる、という気がするんです」
最後に、遠山さんは、このように言われました。
「介護というのは、介護する者とされる者の関係や図式が、固定されやすいですが、そうした関係をずらして、介護する側とされる側が向き合うのではなく、並ぶようになるのがとても大切と思います。歌や紙芝居には、並び合わせるものがあるんです」
リポーターの独言
遠山さんはこうした含蓄ある言葉を、いかにも暢気そうに愉快そうに語って下さいました。私は帰路、思わず、「真理だなぁ〜」と呟いておりました。
「のんびる」9月号に、編集部による「のんびるトーク」で、遠山さんの詳細が出ますよ。ケアワーカー、紙芝居人としての顔とともに、もうひとつの顔、「木工作家」としての遠山さんも登場されるでしょう。
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(佐々木和恵)