■幻視・・・母■
夫が夜間に眠らなかった頃、いわゆる『幻視』という症状もよくあらわれました。幻視というのは読んで字の如し、「いないものが見える」症状です。認知症にはつきものの症状だといわれています。
私のある知人から聞いた話ですが、知人のお母様は知人の隣りに視線を向けて、「今日はおさむうございますね」「おつかれになったでしょう」など言われたことがあったそうです。知人が、「誰に言ってるの?」と訊くと、「あなた失礼ね、○○さんがいらしてるのに」と激怒されということです。○○さんという方は、知人には覚えのない方だそうで、「おそらく、母が若い頃の知り合いでしょう」と、苦笑していました。
夫の場合ですが、夫が決まって言うのは、食事の支度ができて、これらか食べようという時でした。
「とんとつんを呼んでやらなくていいの?」と言うのです。とんとつんと言うのは、我が家の息子の愛称です。息子たちは高校生の頃から愛称で呼ばれるのを嫌がるので、使わなくなって大分経っていたのですが、夫は脳出血の後、愛称で呼ぶようになっていました。
「二人とも家にいないでしょ。だから二階にはいないのよ」
「いるよ。さっき、二階にあがって行ったよ!」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
このような会話が頻繁にありました。夫には息子が学校から帰って二階に上がって行くのが実際に見えていたのでしょう。
自分の母を幻視することは日常的にありました。やはり食事になると、「二階におっかさんがいるから呼んでこよう」と言うのです。『おっかさん』というのは、夫の口癖の呼び方でした。
夫の母親はとっくに亡くなっていましたが、こういう時、私は二階にあがって、降りてくると、「お母様は今はおなかが空いてないから、二人でいっぱい食べなさいって」と言うようにしていました。夫は安心したような雰囲気を見せて、食が進みました。
幻視ではなく、母に似ている人を母と思い込むこともよくありました。
ある時、ホームセンターに二人で買い物に行った時のことです。
外のベンチで待っているはずの夫がいません。店内をくまなく探しましたがいません。駐車場の全体を走り回って探しましたがいません。
私は不安でいっぱいになりました。店の前の通りは車の多い国道です。その道をふらふらしていたら危険です。大急ぎで国道の方に向かいました。
すると、二人の高齢の女性に付き添われるようにした夫の姿が見えました。駆け寄ると、夫は鷹揚に笑って、「おっかさんと歩いていたんだ」と言いました。
おっかさんと言われた人が、困惑を滲ませた笑顔で、「最初は帰る道が同じ方向なんだと思って気にしなかったんですが、どうも・・・・・・」と言いながら、もう一人の人と顔を見合わせました。
事情を聞くと、夫はホームセンターからお二人の後ろについてきたのだそうです。そしてまるで知り合いのようにお二人の話に何かと合いの手を入れるのだそうです。最初は家の近所の人かと思ったものの、どうも話がおかしいし、また「おっかさん」「おっかさん」と言うので、これはホームセンターに送って行った方がいいということになり戻りかけた、ということでした。
夫に「おっかさん」と呼ばれた方は、髪がシルバー色に輝いている方でした。夫の母は、美しい白髪でした。夫は白髪の人を自分の母だと思っていたのです。【つづく】
(佐々木和恵)