埼玉県日高市に用事があり、行ったついでに周辺を散策しようと、高麗郡を訪ねました。
その日は、まず用事を済ませてから市役所へ、玄関で観光案内地図をもらい、それから産業振興課へ。持ってくるのを忘れたレストランの場所をお聞きするためでした。関係のない建築課の方が気前よく、そのレストランのHPをダーと印刷してくださり、いろいろ親切に教えてくださいました。
まず
高麗神社(こま神社とよみます)に直行。それから
聖天院へ足を伸ばしました。古い道を歩いると、おそらく当時とあまり変わっていないのではないかと思えるほど、のどかで心が安らぎます。
日本人のルーツには諸説あるようですが、縄文系と、何回かにわたって異なるルートで大陸から移動してきた異なる民族の渡来系とに大別され、それらの混血により現在に至っているようです。
668年、半島では、唐と新羅の連合軍に高句麗が滅ぼされ、亡命の民が日本列島へ逃れ、関東各地に散らばって暮らすようになりました。高麗郡は、716年、朝廷が関東7ヶ国に居住していた旧高句麗の移民1799人を武蔵国に移したことにより設置されたのが最初とのこと。高麗郡は“高句麗からの難民”の開拓した土地だったのですね。
高麗神社は、高句麗王族とされる若光が、当時の朝廷によって武蔵国内に新設されたこの高麗郷の首長として就任し、関東各地から呼び集めた高句麗からの移民とともに当時未開だったこの地を開拓した、その偉功をたたえ、若光の没後その御霊を祀った神社です。湘南の大磯町にも高麗山があり、高来神社(もとは高麗神社と呼ばれていた)があることからすると、きっと関東全域に現在もたくさんの足跡があるのでしょう。
この時の亡命移住の前にも、長野には5世紀から6世紀にかけての高句麗式積石塚が多数分布し、狛、巨麻などの古代地名が日本各地にたくさんあります。交流はもっと古くからあったのですね。聖徳太子の師となった恵慈、紙と墨の製法を伝えたとされる曇徴らの高句麗のお坊さんも有名です。若光も高句麗が滅ぶ少し前に日本にきていて、既に朝廷から高い位を授けられていたとの説もあります。
朝廷がこの地の開発を進める上で、位も高く、灌漑技術や土木技術有していたと思われるエリート集団が難を逃れて大陸から亡命してきたのを受けて、それまでに渡ってきていた技術集団と共に積極的に彼らを登用したのではないか、という説があります。彼らを厚遇して高麗郡という名前を授け、その土地開発を担当してもらったのではないかとのことです。
この若光王は当時の朝廷とどのように交渉したのでしょうか? すでに文化交流があり、そこから多くの文化を学んでいる所からの亡命集団、特別な技術がない人であっても、現在のように厳しく監視されるということはなかったでしょうね。
おそらく帰ることの出来ない異国の地で、はじめから切り開いていく人たちとは、私には想像つかないのですが、少なくとも同じ境遇の同胞が一緒に居たのは力強かっただろう、王がいたことも励みになっただろうなどなど思いながら
巾着田に向かいました。ここは高麗川が蛇行して巾着の形に流れているのでこの名前がついたそうです。とてもきれいな川です。当時の人たちは、故郷の高句麗を思い、この川がどんなに心のなぐさめになったことだろうと想像しながら、曼珠沙華の季節が終わり、人も少ない川沿いをゆっくり歩きました。
写真トップ 高麗川 巾着田から
写真 中 高麗神社
写真 下 若光王のお墓 「羊の石像」−犬でもなく、キツネでもなく、シーサーでもなく、羊・・・モンゴルあたりの遊牧民と関係あるのかしら・・・調べましたら、羊の石像は韓国の高貴な方の墓の守り神として安置するのだそうです。それにしても羊太夫なる謎の人物や伝説など面白いことがたくさんあるのですね。 (鈴木由利子)