群馬県吉井町に「
多胡碑」を訪ねました。
古代に半島から高い技術を持った人々がこの辺りに多く移り住んだということに興味があり、ちょっと調べるうちに「
羊太夫」という伝説が出てきて、何なのだろう?と思ったことが訪ねたきっかけです。多胡碑は、宮城県の多賀城碑・栃木県の那須国造碑とならび、日本最古の三石碑の一つだそうです。
「多胡」という地名は、胡人がたくさんいる土地ということですが、胡とは、弦楽器の二胡(胡弓との混同は間違いとのこと)などで知られるように、中国からシルクロードの先、アジア西域をさしています。従って、この地域から中国を経て日本に渡ってきた人の多くいる地域ということになるようです。この地名は成田空港の近くにもあり(多古)、私の住む近くの神奈川県中央林間にも多胡記念公園があります。おそらく群馬県のこの地域から他方に移動して行ったと思われます。
まず、群馬県安中市、学習の森にある、「
ふるさと学習館」を訪ねました。町の中心地からはずれ、のんびりした丘陵に建てられたこの施設は、これまでに何回か足を運んでいるのですが、清々した気持ちの安らぐ場所です。そこで渡来人についての資料などを尋ねましたら、学芸員の大工原氏方が、新参者にもならない私のような者に詳しく講義をしてくださいました。地元の方でもあり、次々に資料を出して説明して下さり恐縮至極でした。
また、お昼ご飯に勧めて下さった、この学習館のすぐ近くの
レストラン「とねりこ」では、ちょうどオーナーの方がいらっしゃり、この学習の森で行われる多国籍の方々と一緒に楽しむ祭りのこと、ご自身も日中交流に力をいれておられることなど、いろいろお話ししてくださいました。このレストランはお座敷列車を改造したダチョウ料理がメインのレストランで、車窓から山々の景色を眺めながらの食事は、ちょっとした旅気分。エスニック風のダチョウのカレーを美味しくいただきました。
さて多胡碑ですが、711年に上野国の片岡郡、緑野郡、甘楽郡を分割して多胡郡が作られ、そのことを記念して作られた碑です。 分割の理由は、甘楽郡の勢力の大きさを懸念した中央がその力をそぐためだったとのこと。八高線はいわば渡来系の人材バンクであり、その中でも甘楽郡は織物、牧場がさかんで6世紀の榛名山の爆発でも傷つかず、力をつけてきたことが、大和朝廷に反乱の元になると怖れられたとのことです。
碑に彫られている2文字「給羊」の解釈については、羊とは方角、渡来人、中央から遣わされた郡司など、様々に論議されてきたようですが、「給羊」 を 「羊に給(きゅう) す」 と読み、羊という人物を郡司とし、新しくできた多胡郡に遣わせた、とするのが定説になりつつあるようです。
「羊太夫伝説」でも、この「給羊」を、郡司のこととして語られているようですが、碑の中の「給羊」とは切り離して、伝説の人「羊太夫」とは、誰なの?について大工原氏に伺いました。氏のお話しでは、羊太夫とは、運送業を生業としていた物部氏(中央とは直接関係のない)とも考えられるとのことです。
羊太夫伝説では、最後、羊太夫が謀反を企てているという嫌疑をかけられ、大和朝廷国府軍に追捕されることになっていますが、当時甘楽郡北部で広大な牧場を運営し、蝦夷征伐から戻ってきた集団を受け入れ、運送業を手広く行っていた物部氏も、その勢力の大きさを朝廷に怖れられ、国府の追捕を受けます。追われた物部氏は、甘楽郡から分かれた多胡郡の地に逃げて立て籠もったとのことです。
この地域から出された蝦夷征伐は出羽の国で、ここはすみやかに平定され、出て行った民は地元に戻ってくるのが早かったとのこと。行くときは農民だったのが、戦いの方法を学んで帰った彼らは、いわば戦士の集団、あるいはならず者の集団、農民には戻らず、牧場に集まったとのこと。また、当時の牧場には製鉄所(馬具の製造)や、釜業、皮なめしなどの工房もあり、技術集団を囲っている大きな複合施設でもありました。軍馬をたくさんもち、運送業を行い、広大な範囲に勢力を広げていたのが、中央政府に怖れられたのでしょう。
蝦夷のアテルイが地元で英雄であったように、この物部氏も地元では人気があっただろうと想像されます。元は大陸から渡ってきた技術集団と土着の荒くれ者たちをまとめて、抜群のカリスマ性のあった頭領。馬に乗って疾走する姿が目に浮かぶようです。地元では、この多胡碑は羊さまのお墓として親しまれているとのことです。 (鈴木由利子)