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お葬式考

2008-08-31 23:54:20

発刊したばかりの「のんびる」9月号で特集しています「納得のいくお葬式を考える」は私にとって興味深い記事です。
3年前父を見送り、今年春には母を見送りました。しかし、わたしにとっての葬儀というものの印象や認識は、父や母の葬儀からは学べないことが多いような気がしています。父は跡取りでした。ですから父も母も先祖からの菩提寺の僧侶にて法要が執り行われましたし、家の近くの先祖代々の墓地に眠っています。

私の家族は今のところ菩提寺も墓地も持ちません。これから先必ず待っている事態に対しどう準備するのだ、と自問しても頭が思考停止状態で進めません。
そんな私に「のんびる9月号」は「まず知ることから見てみようよ」と優しく、私の前途に横たわる黒い不安の塊の糸をほぐして見せてくれるようなんです。

記事を読んでまず思ったのは、「家族葬」をこじんまりと行いたいと考える人は多いのだということ。それを知って気持ちが楽になりました。
私の夫は現在66歳ですが常日頃から、「自分が死んだら葬式なんかしないでいい。海にでも散骨してくれ」というばかりで葬儀の話などにまともに向き合おうともしません。
親戚付き合いもほとんど無く近隣や仕事関係の付き合いも挨拶程度。それを見ている私としては「夫が亡くなって葬式をやっても葬儀に来てくれる人は10名くらいかな」と思っています。夫は自身でそれを自覚しているため「葬儀なんてしないでいい」というようなことを言うのでしょう。でも今まで私のみてきた葬儀は皆、葬祭場で、あるいは家で、何十名も集めて執り行われたものでしたので、小さな葬儀というもののイメージが沸かなかったのです。

しかし「のんびる」特集記事では、アンケートのデータから多くの人が「こじんまりした家族葬は良いことだ」と思っていることが示されています。時代の趨勢というか、核家族化の流れで、私の夫のような持論を持つ人が特に変でないことがわかりました。

昭和の通念を引きずっている私としては、「密葬」とかいった内輪だけの葬儀は、なんだか世間に後ろめたいことがあって仕方なく行うのか・・・などというマイナーイメージを持っていたものです。ところが今では「密葬」だけというケースも増えてきたし、「家族葬」と呼ばれるものも人気が高まって来ているとか・・・。私も認識を新たにしました。

私が懸念することで最も大きいのは葬儀にかかる費用です。これは20年ほど昔の叔父の葬儀の時や、最近の父母の葬儀の時、耳に挟んだ周囲の会話からお坊さんへのお布施はすごく高額のものらしいという先入観が自分の中に出来てしまっていました。
叔父の時は、葬儀のあと、お坊さんに渡す謝礼(お布施)を、叔母が幾ら渡したら良いかお坊さんに尋ねたところ、指を3本立てて見せたので「3万円」だと思って差し出したら、「30万円ですよ!しっかりしてくださいよ!」とお坊さんに、常識のないことをなじられたという話でした。

次に、最近の父の葬儀の時耳に挟んだ、その地域の実例の話。
お坊さんは決して謝礼の金額を言わない。(それはその世界のしきたりであるらしい。)「お心で結構です」と言い張るらしい。Aさんの家では、20万円を封筒に入れてお坊さんに差し出した。するとお坊さんは受け取らない。日頃から一万円札の束を見慣れているお坊さんは封筒の厚さで中に幾ら入っているのかわかるらしい。封筒を取らずに黙って正座したままでいたという。仕方なく封筒を引っ込め、奥に行って一万円札を10枚足し入れて改めて差し出したら受け取ってもらえたそうな。

叔父のケースは今から30年くらい昔の話。神奈川県でのこと。Aさんの話は最近長野県でのこと。30年昔も今も葬儀の際お坊さんに渡す謝礼は最低30万円か?などと思ってしまう。地域性もあるのかな。神奈川県での最近の相場はもっと上がっているかも知れない。東京では、それより高いかしら・・・。
こんな世俗の悩みに、「のんびる」の記事は付き合ってくれる。「仏式の料金の目安」を載せてくれています。
「戒名」によっても違うのですね。うちの父母は戒名が信士・信女でしたから値段は最安ランクです。

生前父は「戒名なんて何の意味もない。森鴎外は戒名を拒否し、自分の墓に『森林太郎』という本名を彫らせた。そういうのが良い」と言っていたから戒名が安いランクでも何でも平気であの世で笑っていることでしょう。私はそういう父の影響下で育ちましたから、「戒名」に何の関心も無く来たのです。

でもそういう私でも、最近「戒名」というものにちょっと別な視点を持つようになりました。
私が少し前までホームヘルパーの仕事でよく訪問していた女性。84歳で、それは優しく賢く、私の憧れの女性でした。その女性が、ある日こんなことを言ったのです。
「昨日ね、民生委員の○○さんが久しぶりに家に来てくださいましてね。一緒にお仏壇の周りのお掃除したんです。私もいろいろ整理したく思うものですから・・・。ここの仏壇には、我が家の家系図も置いているんですの。古くて傷んでいるのですけれど・・・。そしたら○○さん、その家系図を見て、『まあ、院号の方が2人いらっしゃる』と驚かれました。そしてね、『院号というのは、菩提寺によほど貢献した方でないともらえない戒名なのですよ。たとえば寺を建て直す際に高額の寄進をしたとか、その他社会に貢献した人でないと。そういう方が先祖におられる家系図は大切にされたほうがいいですよ』といってくださいました。私、誇らしい気持ちでした。それで傷んでいる家系図を、専門の修理に出そうかと思っております。」と。

私は感心した風に相槌を打って聞いておりました。実際、感心したのです。あの時のあの女性の言葉で私の「戒名」考あるいは仏壇考が今までとは違う方向に向き始めました。自分のルーツを誇らしく思うことはいいことだ。家系図だって、次世代に誇りを伝えるものの一手段としては大事なものなのかもしれない。この女性は「院号」がお金さえ積めばもらえるもんだという皮肉な見方をせず、「お寺さんや社会に貢献したから」と素直に信じている。そして自分が亡くなって先のことをあれこれ考えては人生の整理をやることを生きがい、または課題にして今を生きている。

そうした女性の生き方を見て、私も襟を正すような気持ちで考えました。「自分の代で終わるのではない家系」のこと。「この家系の流れの中に生きた幸せ。次世代もさらに自分のように幸せな人生を送ってもらいたいの。よきものをたくさん子や孫たちに受け継いで欲しいと願います。ですから私は毎日こんなにして、家を磨き、家の思い出を磨いているのです」という女性の声が聞こえてくるようです。
人生の整理、葬儀への準備とは、同時に若いものへの教えでもあるのだから、「自分はこうしたい、と貫きとおしたね」「自分の代で終わりだよ。あとのことは知らないよといわんばかりだったね」と周囲の人が感じ取るような葬儀はどうかな・・・と思うようになったのです。

「こじんまりした家族葬」は今の社会の流れに合っている。と、まるで、マンションを選ぶ時の合言葉「家族形態に合った間取り」に似た語感の「家族形態に見合った家族葬」。現実そこへ至るのさえ精一杯のような我が家ですが・・・。
でも今から準備したら形はどうでも、ルーツを受け継いでいく場になるようなことが実現できるかも知れません。

「のんびる」記事で最後の方に碑文谷 創(ひもんや はじめ)さんの言葉があります。「自由な、それぞれに合ったお別れ、送り方ができるようになった反面、何が本当に大切かということも見えにくくなってきたように思います。これまでの根拠のない因習、しがらみからの開放という評価すべきことが多い一方、文化的には根無し草になる危険をはらんでいます」という言葉が私にはずっしりと重く感じられました。
引越しばかりしてきた我が家のことを私は自嘲気味に「根無し草」と表現したことがあるのですが、文化的にまで根無し草になりたくないな、と思います。「のんびる」9月号の記事に触発されて長々とつぶやいてしまいました。(山本豊美)

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