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般若心経に見る、生きるとは

2008-03-24 16:46:55

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ブック・レビュー

寂聴 般若心経 生きるとは

子どもの頃、お盆に祖父の家に行くと、夕方になると皆が仏壇の前に集まって、何やらお経が始まります。御詠歌が終わり、最後に般若心経を唱えます。
「ぎゃあてい ぎゃあてい はらぎゃあてい はらそうぎゃあてい ぼじそわか」
私にとってこの言葉は、長いお経から解放される喜びの言葉でした。

お釈迦様の教えを、266文字に凝縮したのが般若心経です。
そして、私が喜びを覚えた最後の言葉、それは、宇宙との交歓との言葉だと、寂聴さんは書いています。
寂聴さんは、宗教は宇宙の生命を感じることから生まれたのではないかと書いています。
仏教とは
仏教は、釈尊・お釈迦様の教えです。
インドの北方の王子(ゴータマ・ブッダ)は、人間は何故生まれたのか、この世はなぜ苦しいのか、人は死ねばどうなるのか、人間全体の生きる悩みを解決しようとして、修行します。6年の苦行でもその答えが見つからず、川のほとりの大きな木下で座禅を始めます。そこへ村長の息子のお嫁さんがやってきて、「木の神様、どうか元気な赤ちゃんを授けて下さい。かなえて下されば、おいしい乳粥を持ってきます」とお祈りをします。すると本当に赤ちゃんをさずかったお嫁さんは、乳粥を持ってきて「木の神様、ありがとうございます」とお釈迦様の前に乳粥を置いて帰りました。お釈迦様は、その乳粥を食べ、川で身体を洗います。歩いて川を渡り、静かな林の中で、改めて座禅を組みました。そうして、初めて悟りを開いたのです。

生きるとは
私たちの命は、一瞬一瞬動いている。
一瞬一瞬動いている命、その一瞬を一生懸命生きる。その自分はもう死んで、また生まれ変わる。今の私と五分前の私は違う。それくらい、生々発展しなさい。

一瞬一瞬を一生懸命生きるとは
世の中すべて原因があって結果がある。その原因は、今はわからない。わからない事をあれこれ思い悩んでも仕方がない。
今日を思い残すことなく過ごすため、足元をしっかり見なさい。そこから、自分が何をしていけばいいのかを考えなさい。

死とは何か
お釈迦様は、80歳で亡くなる時、「ポンコツ車になっちゃった」と弟子に言って、医者にもかからず、寂しく死んでいった。お釈迦様は、身をもって人生とはこういう物だと教えた。
死ぬとは、宇宙の生命に還元される事。
往生する、ただ死ぬのではなく、あの世に行って、そこで生まれ変わる。あの世において生まれる、永遠の生命を生むというふうに解釈しているのが、お釈迦様の教えです。
“死”とは無になることではなく、宇宙の生命に還元されること、そして、永遠の生命を得ること、そう思うと死ぬということは、そんなに惨めではないのではないか。


では、最後に私が、喜びの言葉として覚えていた最後の部分について少し書いておきます。
「ぎゃあてい ぎゃあてい はらぎゃあてい はらそうぎゃあてい ぼじそわか」
これは、マントラ(真言)だと言います。
宇宙を動かしている大きな生命というものがあって、我々の力では計り知れないものがある。科学的に考えても、物質を原子にまで分析して、その原子はどこからきたのか考える、突き詰めても、突き詰めてもその先にある何か、それを宇宙の大生命だと考えます。
その宇宙の大生命と交歓する言葉が、マントラです。
マントラは、非常に神秘的なものだからわざと訳さない、訳すとありがたみがなくなると前置きして寂聴さんは、次のように訳しました。
「往け往け 彼の岸へ いざともに渡らん 幸いなるかな」

寂聴さんは言います。
身体がぼろぼろになっても、くたびれても、脳がずたずたになっても、失望してはいけない。死ぬまで与えられた命がある限りは、努力しなくちゃいけない、と。
寂聴さんはこの書で、一瞬一瞬を一生懸命に生きる事が大切だと繰り返し書いています。

一瞬一瞬に流されている私は、反省しきりに思うのです。
「明日から、がんばろう」

(松尾 陽子)

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