来て、見て、感じてほしい 珠洲のいま(特集「のと のと ともに」より) 

元日の能登半島地震による甚大な被害から人々が立ち上がりつつあった9月21日、
奥能登では豪雨災害が発生しました。ふたたび被災された方々を思い、
心を痛める人も多いに違いありません。そんな最中、
参加した珠洲の復興支援ツアーを紹介します。(文/写真 山家直子)

Reboot珠洲 本町ステーション 宮口智美さん

至るところに残る爪痕  
9月25日、報道では泥水に覆われた家屋や寸断された道の映像ばかり見ていたというのに、
乗り合いの「ふるさとタクシー」はスイスイと珠洲市に入っていきました。
4日前の雨で大きな被害が出ている地区がある一方で、ツアーコースは点検で
支障がないことが確認ずみ。拍子抜けするほどの晴天のもと、静かに波打つ先に
見附島が浮かんでいました。 「もともとは岩の道があって、島の近くまで
歩いていけたんですよ。手前には砂浜もあって小さい頃から海水浴に来ていたのに、
地盤が沈んでなくなってしまいました」  
ツアー運営会社Reboot珠洲の宮口智美さんが、手にしたタブレットで
かつての見附島の写真を示しながら説明をしてくれます。珠洲のシンボルは崩れて形を変え、
そばにあった見附茶屋の壁には津波の跡が残り、あの日以来、閉鎖されています。  
見附島をスタート地点にしたツアーは、富山湾に面した珠洲市内浦エリアを9か所、
車と徒歩で回りました。見附島公園に隣接する木造二階建ての仮設住宅、8月まで
避難所が設置されていた宝立小中学校、のと鉄道能登線の廃線により2005年に
廃止となった鵜飼駅跡、七夕まつりのキリコ(灯籠)を保管していた倉庫、


液状化で地盤が波打つ飯田港などです(※1)。 コースのあちこちには崩れたままの家があり、
震災から9か月近くたっても後片付けは進んでいません。「市では来年10月までには
解体を終えると言っていますが、まだまだ何年もかかるとも言われています」と宮口さん。
「でも、地震直後は、崩れた屋根が道路を遮って通ることもできず、徒歩で高台まで
逃げたんですよ」と、当初の写真も見せてくれました。ただ現地に赴いてもわかることは点ですが、案内のおかげで変化を感じることができました。

避難所でのまかない体験  
能登町出身の宮口さんは、結婚を機に珠洲市に移り住み、道の駅の観光案内所で
働いていました。元日、家族3人は無事だったものの、自宅は全壊。
身を寄せた避難所で、仮設住宅に入居できるまでの半年余り、食事のボランティアを
率先して担いました。年始で里帰りしていた人も含め、避難者は当初800人近く。
やがて市外の人が帰宅、高齢者や子連れの人が金沢の二次避難所に移るなどして
300人ほどでした。 「最初はパンやお菓子が配られるだけで、子どもが
もう食べたくないって言い始めて。仕事柄、宿や飲食店の方と顔見知りだったから、
炊き出しやろうよって声をかけ、応えてくれた人に指揮をとってもらったんです。
家庭料理とは勝手が違うので、飲食業の人がいるだけで心強かったです」  
日々変動する人数と、備蓄や支援の物資を把握し、当初は配布物や時間の案内を
避難所内に掲示。また外に向けてSNSで炊き出し要請の発信をすると、
外部からさまざまなボランティアが駆けつけてくれるようになりました。
必然的に連絡調整も宮口さんの肩に。 「たとえばインスタントコーヒーが足らないって
発信すると、すぐに『○○から届けます』などレスポンスがある。SNS発信の威力を
すごく感じるようになりましたね。それに、炊き出しでは、たとえば『昼前に伺うつもり
でしたが、雪で遅れます』と連絡があれば、炊き出しは夕食にして、代わりに
何か昼食を出さなくちゃと、臨機応変に対応しなくてはなりません」  
同時に、それまでの仕事の延長で、市内で開いている飲食店やコインランドリーの
情報を足で集め発信していきました。これらはボランティアで珠洲に来た人に活用され、のちにWebサイトに
発展しました(※2)。 

・・・続きは『のんびる』11.12月号特集をご購読ください。
◆11.12月号目次◆
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