おがしわ・けいこ
群馬県生まれ。社会福祉法人恵林の評議員などをへて2000年、障がい者の創作活動を支援する工房あかねを発足。
(2002年NPO法人化)。同団体の代表を務めながら、障がい児・者と共にくらす会会長、群馬県NPO協議会委員などを歴任した。

毎号の表紙を飾り、“のんびるの顔”とも言える、障がい者によるアートの数々。そのきっかけとなったのが、群馬県高崎市のNPO法人 工房あかねとの出会いでした。

創作活動を通して人が生き、人がつながる。創刊20周年を前に、小さなアトリエの物語を振り返りました。

聞き手・構成/濵田研吾 
写真/堂本ひまり

得意なことで社会との接点を

─2007年8月号で工房あかねの活動を初めてご紹介し、そのご縁でメンバー(利用者)の皆さんの作品を、表紙に掲載させていただくようになりました。

 毎号のように載せていただいた時期があり、私たちも励みになりました。2000年に工房あかねを設立し、『のんびる』さんといっしょに育ってきたような気がします。紙の雑誌は、こうしてかたちで残るからいいですよね。

 20年ほど前、田中三千夏さん(生活協同組合パルシステム群馬・元理事長)と出会い、パルシステム群馬の組合員さんとお子さんを対象に、ワークショップを開いたことがありました。『のんびる』さんとのご縁も、田中さんがきっかけだったと思います。

─表紙に最初に紹介したのが、小柏龍太郎さんの「発光」(2007年11月号)でした。

 息子の龍太郎はダウン症で、養護学校(特別支援学校)の高等部を卒業するとき、地元の福祉作業所を見学したんです。どこの作業所も、ホチキスの芯を小さな箱に詰めるだけの単純作業でした。

働いている人たちは無表情で、私語もない。しかも施設の方から、「ありがたく思ってください」という意味のことを言われたんです。

 私といっしょに見学した方も、「うちの娘は料理が好きで、クッキーを作る仕事はできますか」と質問したら、「娘さんは重度だから、無理です」と言われていました。

「障がいの有無で、仕事を線引きするような社会は絶対におかしい」と憤りを覚えました。もっと自分の得意なことで、社会との接点がつくれないか、母親として悶々とするばかりで……。

─そんなとき、障がい者が描くアートの数々と出会った。

 懇意にしていた新聞記者さんが、「小柏さんがやりたいことのヒントがある」と、「アートパラリンピック長野」(※2)のことを教えてくれたんです。型にとらわれない表現、ユニークな色の取り合わせ、「こんなにすごい才能を持つ人たちがいるんだ」と涙が出ました。

「私もアートで何か活動を始めよう!」と帰りの新幹線のなかで決め、すぐ動き出しました。最初は「茜の会」という名前でした。

アートは人を変えていく

─龍太郎さんは、もともと絵を描くのが好きだったんですか。

 好きな色柄の洋服を選んだり、色にはとても関心がありました。ただ、絵を描くことはなかったんです。

活動を始めたころ、「おもしろい人がいる」と紹介されたのが、画家で現代アート作家の前島芳隆さんです。「すごい才能の持ち主が、いっぱいいる」と前島さんは、いろいろと協力してくれました。

─龍太郎さんと前島さんは、ユニット「リュウ2(RYU2)」を組み、「トバシ」と名づけたアートパフォーマンスを披露していました。

 龍太郎と前島さんのアトリエにお邪魔したとき、前島さんが画用紙にいろんな色の絵の具を出してくれたんです。

龍太郎がそれを、絵筆で自由に混ぜ始めて、ピッ、ピッと画用紙の外に絵の具を飛ばした。「アトリエが汚れる」と私が心配したら、前島さんが「目の色が変わった。もっと思いっきり、描かせてみたい」。

 それからしばらく経って、龍太郎が「トバシがやりてえ」と言ったんです。

前島さんは、「こんなに自由で、枠にとらわれない画風があるのか」と衝撃を受けたそうです。こうして生まれたのが、「リュウ2(RYU2)」です。

 龍太郎は今年で、46歳になります。体力的に「トバシ」はできなくなりましたが、おだやかに楽しく暮らしています。

─龍太郎さんから始まった工房あかねは、それから多彩なメンバーが集います。

 アートパラリンピックを教えてくれた記者さんが、「障がい者の創作活動を応援したい」という私の夢を、記事にしてくれました。それを見て、県内のいろんな施設の方が、作品を持って訪ねてきてくれたんです。

私も前島さんと、県内の施設を訪ねました。施設の利用者さんのなかには一人くらい、黙々と絵を描いている人がいるんです。描きたいものを素直に表現するから、どの作品も魅力的でした。
<<<続きは本誌9.10月号で

前島芳隆さん(左)と小柏龍太郎さん(右)。2007年8月号より