とみざわ・やすこ 東京生まれ。東京女子医科大学卒業後、同大学心臓血管外科助教(2020年、定年退職)。
2016年「日本女性外科医会」代表世話人として「平塚らいてう賞」受賞。
公益財団法人 賀川事業団雲柱社 理事、「賀川ハル研究会」代表。
賀川豊彦・ハル夫妻の長女・千代子は、母にあたる。撮影/堂本ひまり
インタビュー
祖母から受けつぐ志と家族の歴史 冨澤康子さん
(公益財団法人 賀川事業団雲柱社 理事)
大正から昭和にかけて社会運動家として活動し、「生協の父」と呼ばれている賀川豊彦(※1)。
その豊彦を支えながら、自らも女性解放運動に身を投じたのが妻の賀川ハル(※2)でした。
彼女の生き方から今、何が学べるのか。
孫としてハルの足跡を辿っている冨澤康子さんを訪ねました。
(※1)1888-1960。キリスト教社会運動家。
労働運動、農民運動、無産政党運動、生活協同組合運動、協同組合保険(共済)運動などを牽引。
「生協の父」としても名高い。
(※ 2)1888-1982。女中奉公をへて、神戸の福音印刷会社で働く。そこで豊彦と出会い、洗礼を受けたのち結婚。
「覚醒婦人協会」を創立するなど、自らも社会運動、女性解放運動に尽力した
前列中央に冨澤康子さん、左に母の千代子さん、後に祖母のハルさん、
右後ろに祖父の賀川豊彦さん(1957年、上北沢の賀川家)写真提供/賀川豊彦記念 松澤資料館
身近にいたからこその思い出
─賀川ハルさんの写真を拝見すると、よく似ていらっしゃいますね。
祖父母の結婚式の写真を見ると、ハルは私の高校時代とそっくりなんですよ。
祖母のハルとは、小学2年生くらいまで、
世田谷区上北沢でいっしょに暮らしていました。
ふたりで庭の掃除をしたり、母(千代子さん)が働いているあいだ、
祖母の仕事にくっついていたり。
─おじいさまである賀川豊彦さんのことは、覚えていらっしゃいますか。
講演先の高松で倒れ、母と弟と3人でお見舞いに行きました。
祖父が突然「帰る」と言い出して、
大変な状態でいっしょに帰ってきた記憶があります。
東京駅はバリアフリーではなく、母が自分の荷物を持ちながら、
祖父をおぶって階段を降りる姿が衝撃的で。
見るに見かねて、途中まで荷物を持ってくれた人がいました。
─ハルさんの素顔をお聞かせください。
すごく几帳面で、筆まめでした。
祖母が遺した日記や家計簿を読むと、
掌で夫を転がしていたんじゃないか、とさえ感じます。
財布のひもを握っているし、祖父が関わっていた事業に関する判断や指示も、
必要があれば自分でしていました。
祖父が海外に長期の伝道に出かけるときは、そのあいだの事業を祖母が切り盛りして、
訪ねてくる人の応対もしていました。
賀川ハルさん(上北沢の松澤幼稚園の園庭)
写真提供/賀川豊彦記念 松澤資料館
─冨澤さんは、ハルさんの人となりを受け継
いでいらっしゃると思いますか。
私が筆まめだったり、人付き合いがいいのは、祖母の影響ですね。
私が幼いころは、世の中はまだ貧しく、
訪ねてくる方がお腹をすかせていることが多くありました。
そんなとき祖母は絶対にそのまま帰さず、おなかをみたして帰っていただきました。
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