コンバインハウスに書かれた「いい里 いい米 いい仲間」の文字。「わたしが書いたんです」と照れくさそうな菅野正寿さんは、山深い棚田で米、豆、野菜を育てています。ベテランの有機農家が語った「令和の米騒動」、ふるさとへの願い、そして、産地と都市の垣根を越えた人とのつながり─
文/濵田研吾 写真/藤井将
菅野正寿さん

案山子のいる棚田で

JR東北本線の二本松駅からバスで30分、二本松市東和地区(旧東和町)の布沢集落に、「東和の布沢棚田」が広がっています。国の「つなぐ棚田遺産」に認定され、大小155枚の棚田と畑があり、天女が舞い降りた伝説も残されています。20戸の集落のうち、14戸が米作り農家で、菅野正寿さんは、そのひとりです。
 
菅野さんを訪ねたのは2025年11月。稲刈りは終わり、紅葉で山は色づいていました。畑にならぶ案山子は、毎年秋の「布沢棚田の芸術祭」で開かれる「案山子コンクール」の作品で、地元の小学生や棚田オーナー、地域の方による力作揃いです。
 
 菅野さんは、米、豆、野菜を育てるいっぽう、収穫物を餅、豆腐、納豆に加工したり、「農家民宿 遊雲の里」を営むなど、農業の多角化を実践しています。

 米は主に「棚田米」と名づけたこしひかりで、水田は3・5ヘクタール(うち有機70アール)。畑はハウスを含め1ヘクタール(うち有機20アール)あり、大玉トマト、なす、パプリカ、大根などを栽培。さらに、餅に加工する「こがねもち」、納豆、豆腐、豆餅に加工する豆類(大豆、青豆、黒豆)を育てています。

「脱穀を終えて、棚田オーナーさんやお客さんに新米を送ったら、収穫したこがねもちを餅に加工したり、冬の仕事が始まります。今年の棚田米はいい出来で、湧き水のおかげで水不足にも困らなかった。ただ、高温障害で、受粉の時期に実があまりならず、トマトや豆類の収量は落ちました」

 菅野家は200年続く農家で、1958年生まれの菅野さんは7代目にあたります。「私が高校、大学生のころは、農家の大規模化が、国の農政の指針でした。でも、ここは山深い棚田だから、そんなことは無理です。そんなとき、山形の有機農家・星寛治(※1)さんと出会い、身の丈に合った農業の大切さを知ったんです。上京し、農業大学校(※2)で学んだものの、都会の暮らしには馴染めませんでした」

 1970年代の都市は、公害・環境問題や教育問題が覆っていました。そこに経済成長の矛盾を感じた菅野さんは、農業大学校を卒業したのち、布沢に戻ります。1983年には、地元の仲間と農家の複合経営研究会を立ち上げ、生協と産直提携するなど販路を開拓。集落ぐるみで化学合成農薬と化学肥料にできるだけ頼らない農業に、シフトしていきます。

 2005年には、旧東和町が二本松市に合併されたのを機に、NPO法人「ゆうきの里 東和ふるさとづくり協議会」を立ち上げ、食と農の地域づくりに邁進してきました。

農家のチカラ、市民のチカラ

菅野さんのキャリアを伺いながら、話題は「令和の米騒動」へ移ります。
「流通の問題ばかりがクローズアップされ、米の高い、安いという面だけで問題が矮小化されてしまった。なぜ米が足りなくなったのか、農村がどうなっているのか、根本的なところが報じられていません。国の農政も、農村の実態を把握せず、小手先で乗り切ろうとするばかりで筋がない」

 日本の米農家は、この20年で約6割減ったとされています(農水省「農業経営をめぐる情勢について」)。後継者不足で離農者が増え、耕作放棄地は広がり、少子高齢化で農村のコミュニティも失われてきました。東和地区の米農家も70代が中心で、「10年後の集落が心配」と菅野さんは言います。

「日本の米問題は、外国産米の輸入や大企業の農業参入だけで解決できません。生産者は、採算の合わない低米価を強いられ、農村で働く人の給料もずっと上がっていません。農村がそこまで追い詰められていることに、市民の側も目を向けてほしい」
<<<続きは本誌1・2月号