しょうじ・ようこ
1947年福島県生まれ。福島県大熊町で衣料品店「ニットアトリエ庄子」を営むかたわら、大熊町生涯学習課の社会教育指導員として裁縫、生け花、料理を指導。2011年3月の東京電力福島第一原子力発電所事故に伴う全町避難で会津若松市内に避難。2012年、大熊町の仲間と会津木綿を用いた工房「會空」を立ち上げ、現在に至る。


つぶらな瞳、ま~るい鼻、とぼけた顔の「あいくー」。2011年に起きた福島の原発事故で、離れざるを得なくなったふるさとへの想いを込めた、会津木綿(※1)のテディベアです。生みの親である庄子ヤウ子さんを、久しぶりに訪ねました。
聞き手・構成/濵田研吾 
写真/藤井将

ひと針ひと針、想いを込めて

会津木綿のテディベア「あいくー」

─「あいくー」を『のんびる』で初めて紹介したのは、2012年10月号の特集「東北発! みんなのものづくり」でした。

 なつかしい。当時は仮設住宅で暮らしながら、数人の仲間といっしょに、ビルの一室で工房を切り盛りしていました。『のんびる』さんには、活動を始めたころから取り上げてもらったんです。

 工房にいたメンバーは会津を離れ、今は私ひとり。通販サイト(minne)や福島のアンテナショップ、おみやげ屋さんなど、注文が来たら、自宅で作っています。

 あいくーのほかにも、会津木綿を使った小物や「メモリアルベア」を作っています。お客さまの思い出の服や布を使って、あいくーを作ります。

─「会津から故郷・大熊町まで続く空。いつかふるさとへ帰ることを願い、会津への感謝を込め、ひと針ひと針想いを込めたものづくり」。會空のチラシにある言葉です。

 その気持ちは、今も変わっていません。15年いっしょに歩いてきた相棒ですから。この子がいなかったら、私の心は折れていたはず。いつも手を動かしていた人間なので。

 ふるさとの大熊町では、ニットのお店をしながら、編み物や生け花を教えていました。65歳のとき、原発事故で会津に逃げてきて、いっしょに避難してきた教え子と、「悔しいから何かやっぺ!」とものづくりを始めたんです。
 
 そこで出会ったのが会津木綿でした。コースターひとつ、ハンカチ1枚から、ていねいに作っていこうと。

─大熊町のマスコット「おおちゃん、くうちゃん」がモデルの「あいくー」も誕生します。

 市販のぬいぐるみをほどき、見様見真似で作りました。最初は「ブタ? ウシ? クマなの?」とか言われて。県立博物館の学芸員さんが、紙粘土であいくーの原型を作ってくれたんです。鼻の丸いところがむずかしくて、目の大きさとか、だんだんかわいい子になりました。

 この子を持って「起業します」とプレゼンして、国から助成・支援をいただきました。会津木綿を使って、ぬいぐるみのように立体的な商品を考えた人は、それまでいなかったみたいです。大熊から編み機を持ってきて、本格的に活動を始めました。
 

「あいくー」の原型は庄子さんの宝物

会津で暮らした日々

─フランスのパリで開かれた「メゾン・エ・オブジェ2014」の福島ブースのマスコットキャラクターに選ばれたほか、大手航空会社や化粧品メーカーとコラボするなど、あいくーは大きな注目を集めます。

 そうそう、この子といっしょにパリに行ったんです。あのときは工房に10人くらいいて、半年で250個も手作りしました。それこそ目に隈をつくって(笑)。パリから戻ってからです、「私たちのあいくー」と自信をもって言えるようになったのは。
 
 あいくーのほかにも、猪苗代縞(猪苗代地域で綴られる会津木綿)を使ったマスコットも考案しました。猪苗代湖の道の駅の「うりぼうくん」。この子も、ずいぶん作りましたよ。

─ここまで変わらず続けられた秘訣は?

 何事もブレなかったからかな。「震災」というレッテルは貼られたくないので、「會空」として自立し、喜んでもらえるものをお届けする。工房の仲間とは、その志で始めました。根がものづくりの人間なので、自分の手で自由にやれたことも大きいです。<<<続きは本誌3・4月号で

庄子さんの工房にある会津木綿